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2008年04月21日

1.生いたち

今回感想は、最後に書きます。
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(以下祖母の日記)

明治41年(1908年)1月22日、私は京都府の北部、宮津の城下町より
更に北へ30kmの丹後半島突端に近い小さな漁港、
伊根の亀島に生まれた。

父金蔵35、母美祢(ミネ?)29歳であった。2人の間の長女として、
ペンペン草の生えた草ぶきの屋根の下で、祖母を加えた大人3人の
祝福を受けて私は産ぶ声をあげたのである。

その頃の日本は、皇国の興廃をかけて戦った日露の戦没も終り、
講和条約も結ばれて国民は戦勝に酔っていた。
そして文学、スポーツ、産業がそれぞれ目覚しく躍進し、
教育も義務年限6ヵ年に延長され自由民権思想も芽をふきかけて
いたという。

私が幼い頃の記憶をたどり、一番古いものとして
心に残っているのは4歳頃のことではなかろうか。
それは、父と一人の男の人が真ん中に
囲炉裏の切ってある10畳ほどの部屋で、
取っ組み合いをしていた情景である。

その男の人がどこから来て、何の理由で争っていたのかなど、
幼い私には解るはずもなく、唯々父があぶないという心配と
同時に、事の恐ろしさが一杯で、私はその部屋にいた母に
しがみついていただけであった。
後で祖母から聞いたのであるが、その男の人は父の弟で
私にとって叔父になる人であった。

叔父は貧しい猟師の生活にあきたらず、さんざん身を持ちくずした
挙句、遠く北海道に渡って外国航路の貨物船に乗り、
使役夫をしていたらしい。

その叔父が病気になり、正月を10日後に控えた年の暮の忙しい時
父が函館まで連れにいき、帰ってからの事であったことがわかった。

その叔父は、後で病気も治り再び北海道に渡ったが、私が
3年生の時2、3の遺品と遺骨になって帰ってきた。
その時祖母は帰ってきた遺骨にしがみついて
「不幸な子ほど可愛い。」といって、泣いていた姿が忘れられない。

その病気になった叔父を迎えに行く時、
父は正月の費用に貯めていた金を全部そのまゝ持って行ったので、
家では餅米を買うことも出来ず父の帰りをひたすら待っていたという。

当時正月のお餅といえば、どこの家でも30kgから多い家では
60kgの餅米を使って搗(つ)いたものである。
叔父の遺骨を持って帰った年は、とても餅を搗く日数のゆとりもなく
また経済的な余裕もなかったようである。

でも私がせがんだので、当時としては珍しく
冬場だけ「ぜんざい屋」をはじめる家が亀島に一軒あった。
そのぜんざい屋から5人分のぜんざいを買ってきて、
私を納得させたと祖母が語ってくれたことがあった。

私の家の貧しさは、そのまゝ大正、昭和へと
私の幼児期から少女期へ続き、世間でいわれている
貧しく生まれ、貧しく育てられたその通りの私であった。

【山青み 海また蒼き鄙(ひな)の家に 産声あげて 女子は生れけり】

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(以下感想)

祖母の日記を写し始めてまず思ったことは
「こんな漢字(あるいは文字)を使ってたんだ。」
ということである。

祖母の日記には、よく「そのまま」という言い回しがでてくる。
祖母は必ず「そのまゝ」と表現しているので
どうしてもそれを使いたいが、単純に打ったのでは
変換選択肢になんか出てこない。

記号の選択肢にはあるが、それを当初思いつかず
あれこれ試して結局「繰り返し」と入力すると出てきた。
自分が書いていない日記をうつすのは、思ったより大変である。
でも意外な発見もある。

投稿者 Taniguchi : 2008年04月21日 10:25

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