2008年06月02日
2.いわし漁-その3-
その1・その2と、祖母の日記を書きうつした。
「いわし漁」の中で祖母の貧乏話がでてきたが、
これ以降も祖母の貧乏話は随所に出てくる。
祖母の貧乏話は、息子である父からも時折聞いたことがあるが
かなり貧乏だったらしい。
でも最終的に、祖母は「人並みの生活」ができるまでになる。
祖母は、私と同居していたわけではない。
しかし、妹が生まれた後や、学校が休みになるたびに祖母の家に
滞在していた私は、ことあるごとに「格言のようなもの」を
その都度いろんな形で祖母から伝授された。
今になってみれば、それが生き方の軸形成に役立ったのかなあ、
と思っている。
その2では、私の曾祖母が祖母に昔話をする記述があるが
私が幼い頃、祖母も私によく昔話をしてくれた。
曾祖母が祖母にしたのと同じように、夜一緒に寝るときは、
必ず昔話をしてくれた。
ただ、レパートリーは少なかったので、何度も同じ話を聞いた。
そのなかで、特に繰り返された昔話が「かちかちやま」である。
もし、今後お孫さんを持つ祖父母の方がおられたら、お願いがある。
「かちかちやま」を孫に寝る前に話すなら
決して、孫より先に寝てはいけない。
それはなぜか。
当時、祖母の家に泊まりに行くと、夜は祖父と祖母の3人で
6畳の和室に寝ていた。その部屋で昔話が毎夜繰り返された。
当時4歳~5歳だった私はある程度「話を想像する力」がついていた。
お話を聞くと、そのストーリーがアタマの中で映像化するのである。
「かちかちやま」。
日本の昔話は、結構怖い。
このお話は、私の中でランク度の高い「ホラー」である。
冒頭いきなり、おばあさんが鍋に入れられる。
おじいさんが食べてしまう。
そのあとは、タヌキの背中が燃える、
唐辛子入りの軟膏が容赦なくヤケドあとにすりこまれる、
そしてタヌキが泥舟ごと沈む。
(祖母の語る「かちかちやま」はこうだった。)
これが、アタマの中で、映像化されるのである。
「おばあさんが、鍋の中???」
どうやって鍋に入れたのかと聞きたいのに、怖すぎて聞けない。
自分の想像が正しいと言われたら、それはそれであまりにも怖い。
話だけでもじゅうぶん怖いのに、
祖母の家はさらに恐怖をあおる環境だった。
田舎の、山奥の小さな集落。
家の右横は一面の田んぼ、後ろは一面の畑と窓際にススキ。
左横は道路を挟んで山の斜面。そして家の前は、庭を挟んで廃屋。
こんな田舎に、車などほとんどこない。
夜は、昔話を話す祖母の声と自然の音しか聞こえないのである。
同じ部屋に寝る祖父は、いつも先に寝入っていた。
祖父に気を使ってか、祖母が真ん中で私はいつも
祖父とは反対側に寝かされていた。
右を向けば祖母・祖父、そしてその向こうの障子には
月明かりに照らされてうつるススキの影。
左を向けば、これまた障子戸。
足元は、夜になるとなぜか怖く感じる押入れと床の間。
アタマ側にはタンスと、その上に夜になるとなぜか怖く感じる日本人形。
物悲しく鳴く虫の声と、古い家屋の窓を揺らす風の音。
障子にうつる、揺れるススキの影。
何かが出てきそうな押入れと、動き出しそうな日本人形。
視覚的にも聴覚的にも完璧な設定。
この状況で「かちかちやま」。
しかも、祖母は「・・・おしまい。」というと、すぐに寝入るのである。
豆電球もついていない部屋で、私はひとり置き去りである。
そのあとの、寝るまでの恐怖。
いまでも鮮明に覚えているから、当時相当怖かったのだと思う。
祖母を起こせばよかったのかもしれないが、
そこは子どもなりの気遣いがあり、寝た人を起こすというのは悪い、
と思って起こせなかった。
尊敬する祖母に、唯一言いたかった苦情。
「かちかちやまの時は、先に寝ないで欲しかった。」
ということで、祖父母のみなさん。
「かちかちやま」のときは、決して孫より先に寝ないでください。
投稿者 Taniguchi : 20:41
2008年05月15日
2.いわし漁-その2-
以下祖母の日記。長いので解説はその3に。
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鰮漁の舟出は、大てい午後の四時か五時頃であったように記憶している。
時には朝置きといって、朝早く漁に出ることも間々あった。
つぎの出来事は昼間のように覚えているので、朝置きの鰮漁の時のことで
あったろう。
其の日、父の網には漁が少なかったためか、母は私をつれて近所の
舟小屋へ手伝いにいった。舟小屋に引き上げられた舟の両側にいて
舟の中から網をたぐり出しながら、銀色に光った鰮をはずしていくさまは、
今から思えばなんとまあ、のんびりした仕ぐさであったろうか。
そんな仕事は私たち子どもにとっては、あまりにも悠長で甚だつまらぬ
とても待ちきれないものであった。
私は母のそばに居るのがとても退屈になり、母の前掛をしきりと
引っぱった。
その当時の子どもは殆ど、大勢の人の前では自分の意思を言葉で
いい表すことを恥ずかしく思っていた。或いはそのように
躾けられていたのかもしれない。
私のその様子を見たのであろうか、その家の小母さんが
「うちへ上って遊んでこいな、おしず(仮名)が居るで。」と言って、
私をうながして家につれていってくれた。
戸袋のある大きな白壁の家であった。
其の家には私より三つ年上のおしず(仮名)という女の子がいた。
母親によく似て、気だてのやさしい子だった。
当時としては中々口にすることの出来難い菓子などを持って出ては、
誰かれの区別なく子どもたちによく与えていた。
私が黒砂糖をおやつとして食べたのも、この女の子からもらったのが
はじまりであった。
私はその女の子と部屋の中で何をして、どれだけの時間遊んでいたかは
記憶に残っていない。
にわかに縁側に足音がしたかと思うと、いきなり障子が開いて、
頭髪も顔のひげも白くなったその家のおじいさんが部屋に入ってきた。
村の人は其のおじいさんを「旦那さん」と呼んでいた。
その旦那さんが部屋に入ってくるなり、私を見て
「お前は、えんだの子でないか。(えんだは私の家の屋号)
この家は、お前のくるような家でない。
いね(帰れという言葉)。」
と、さもにくたらしそうに、しわがれた声でどなった。
私は、こわさで舟小屋に母が居ることも忘れて、赤い鼻緒の草履を
はくこともせず、手にかゝえて、くぐり戸をぬけて外に出るなり
「わあッ。」と声を出して泣き、家に走って帰った。
帰っても家には誰もいなかった。
それからの記憶は残っていないが、おそらく前の畑に出て、
蝶などでも取って遊んでいたのではないだろうか。
其の晩、私は祖母と同じ床に寝た。私が祖母と寝るのには、
それなりの理由があったのである。
それは祖母がかならず私が眠りにつくまで一つか二つの昔話を
きかせてくれることであった。
「おばあ、今日な、旦那さんが、おしず(仮名)さんの家で遊んどったら
『お前の来る家でない、いね。』といって、私をおい出したで。」
というと、祖母は
「お前がなにか、わるさしたんだないか。」といった。
「ううん、なんにも。ほんまになんにもせんのに、いねというたで。
なんでだえ、なんでだ。」
と、祖母にしつこくきくと、
「うちが貧乏だからだろう。子どもに罪はないのに。」と、いった。
祖母との間に、そんなやりとりがあって暫くしてから、私の額に
あつい祖母の涙が流れてきたことを忘れることが出来ない。
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解説はその3に。
投稿者 Taniguchi : 18:45
2008年05月12日
2.いわし漁-その1-
この項は長いので、その1とその2に。
以下祖母の日記。
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次の出来ごとは、私に物心がつき、その貧しさを私の身で
受けとめるようになってからの、忘れることが出来ない一つの出来事である。
肌をさすような港の冬も過ぎて、春も半ばになると、村は鰮(いわし)漁で
湧き立ってくるのだった。其の前に鰮漁について、説明しておかなければ
ならない。
その当時の鰮漁といえば今とは全く異なっていて、四角に編んだ網を海に
投げ入れ、その網の目に鰮の頭をつっこませて捕る「さし網み」という
漁法であった。その網は、巾三m丈四mほどもあったろうか、
まむし糸(木綿)で編んだもので、その網を海中に入れ、その網をまた
引きあげて鰮をとるという方法である。
古めかしい漁法ではあるが其の当時の伊根の漁村にとっては、
この鰮の収入が一年の上半期(三・四・五・六・七・八月)の生活を支える
大きな収入になったのである。
随って(したがって)この網を一かわ(一流)つくるのに資金も相当かゝり、
そうたやすく購入出来るものではなかった。
漁にでたら、普通一回の漁にこの網を五かわ、時にはもう少し多く海に
投げ入れた。漁師はこれを置くと言っていた。
鰮のよくとれる時期などは、全部の網にしっかりと鰮がかゝり、網を舟に
引き上げると鰮の重みで舟が半分位も沈み、時には舟、人ともに
沈むという危険なこともあって、一かわニかわ海に切り捨てゝ帰ることも
あった。
舟が鰮を積んで帰ってくると、今度はこの網の目にかゝった鰮を一匹一匹
はずさなければならない。これがまた大変な仕事で、その為隣近所の人は
早く済んだ家から家へと手伝って歩くのが、この当時の道義的な
ならわしであった。
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その2に続く。
投稿者 Taniguchi : 16:48
2008年04月21日
1.生いたち
今回感想は、最後に書きます。
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(以下祖母の日記)
明治41年(1908年)1月22日、私は京都府の北部、宮津の城下町より
更に北へ30kmの丹後半島突端に近い小さな漁港、
伊根の亀島に生まれた。
父金蔵35、母美祢(ミネ?)29歳であった。2人の間の長女として、
ペンペン草の生えた草ぶきの屋根の下で、祖母を加えた大人3人の
祝福を受けて私は産ぶ声をあげたのである。
その頃の日本は、皇国の興廃をかけて戦った日露の戦没も終り、
講和条約も結ばれて国民は戦勝に酔っていた。
そして文学、スポーツ、産業がそれぞれ目覚しく躍進し、
教育も義務年限6ヵ年に延長され自由民権思想も芽をふきかけて
いたという。
私が幼い頃の記憶をたどり、一番古いものとして
心に残っているのは4歳頃のことではなかろうか。
それは、父と一人の男の人が真ん中に
囲炉裏の切ってある10畳ほどの部屋で、
取っ組み合いをしていた情景である。
その男の人がどこから来て、何の理由で争っていたのかなど、
幼い私には解るはずもなく、唯々父があぶないという心配と
同時に、事の恐ろしさが一杯で、私はその部屋にいた母に
しがみついていただけであった。
後で祖母から聞いたのであるが、その男の人は父の弟で
私にとって叔父になる人であった。
叔父は貧しい猟師の生活にあきたらず、さんざん身を持ちくずした
挙句、遠く北海道に渡って外国航路の貨物船に乗り、
使役夫をしていたらしい。
その叔父が病気になり、正月を10日後に控えた年の暮の忙しい時
父が函館まで連れにいき、帰ってからの事であったことがわかった。
その叔父は、後で病気も治り再び北海道に渡ったが、私が
3年生の時2、3の遺品と遺骨になって帰ってきた。
その時祖母は帰ってきた遺骨にしがみついて
「不幸な子ほど可愛い。」といって、泣いていた姿が忘れられない。
その病気になった叔父を迎えに行く時、
父は正月の費用に貯めていた金を全部そのまゝ持って行ったので、
家では餅米を買うことも出来ず父の帰りをひたすら待っていたという。
当時正月のお餅といえば、どこの家でも30kgから多い家では
60kgの餅米を使って搗(つ)いたものである。
叔父の遺骨を持って帰った年は、とても餅を搗く日数のゆとりもなく
また経済的な余裕もなかったようである。
でも私がせがんだので、当時としては珍しく
冬場だけ「ぜんざい屋」をはじめる家が亀島に一軒あった。
そのぜんざい屋から5人分のぜんざいを買ってきて、
私を納得させたと祖母が語ってくれたことがあった。
私の家の貧しさは、そのまゝ大正、昭和へと
私の幼児期から少女期へ続き、世間でいわれている
貧しく生まれ、貧しく育てられたその通りの私であった。
【山青み 海また蒼き鄙(ひな)の家に 産声あげて 女子は生れけり】
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(以下感想)
祖母の日記を写し始めてまず思ったことは
「こんな漢字(あるいは文字)を使ってたんだ。」
ということである。
祖母の日記には、よく「そのまま」という言い回しがでてくる。
祖母は必ず「そのまゝ」と表現しているので
どうしてもそれを使いたいが、単純に打ったのでは
変換選択肢になんか出てこない。
記号の選択肢にはあるが、それを当初思いつかず
あれこれ試して結局「繰り返し」と入力すると出てきた。
自分が書いていない日記をうつすのは、思ったより大変である。
でも意外な発見もある。